父、岐阜市の家を売る
『冷静と感情の間で』
六月の終わり、庭の紫陽花が色づく頃、私は実家の門をくぐった。
築五十年を超える木造住宅。かつて祖父が建て、父が引き継いだ家。風が吹けば軋む音を立て、雨が降れば屋根の一部がにじむ。けれども、私にとっては「家」だった。
弁護士という仕事は、ときに「情」を切り離す必要がある。依頼者のために、冷静に、迅速に、法的な判断を下す。それが私の信条だった。
けれど、父の家を売る——そのことを考えるときだけは、どうしても胸の奥がざわついた。
兄から電話が来たのは、六月の終わりだった。
「父さん、やっぱりちょっとおかしいよ。鍵を冷蔵庫に入れてたり、話も噛み合わないことが増えた」
私は静かに返した。
「まだ認知症の診断はされてないんでしょ?」
「でも、明らかに前と違う。今のうちに、家のこと決めておかないと、後で大変になる」
私はうなずいた。兄が言うように、法律的にも倫理的にも、いま決断することが最も穏当だった。
——もし父が認知症と診断されれば、不動産は本人の判断では処分できなくなる。家庭裁判所に申し立てをして、成年後見人を選任してもらう。時間も労力もかかるし、自由も効かない。
けれど、父にそれを納得させるのは、至難の業だった。
私は一度だけ、父にそう話しかけたことがある。
「お父さん。最近、物忘れが多いでしょ? 心配なの。家のこと、どうするか決めておいたほうがいい」
「お前までそんなことを言うのか」
父は不機嫌そうに言い放った。まるで、自分の尊厳を否定されたかのように。
私の心は、そこで揺れた。
私は幼い頃、父に何かを頼んで断られた記憶が、ひどく少ない。言いなりだったわけではない。ただ、父は「娘には弱い」と自認していた。母が亡くなった日でさえ、私を気遣っていた。——「お前がしっかりしてくれて、助かる」と。
だから私は、泣かなかった。父を泣かせないために。
でも、今、私は彼に「老い」を突きつけようとしている。家を売るという決断を迫る。それがどれほど酷なことか、分かっていた。
兄は、感情的だった。父に正面から「家を売れ」と言ったと聞いたとき、私は思わずため息をついた。
「父さんには、誇りがあるのよ。あの家は、人生の証なの」
「それは分かってる。でも、俺たちは現実を見なきゃならない」
兄の言い分も、もちろん正しい。彼は毎週のように実家に通い、父の世話をしてくれていた。私より、ずっと父に寄り添っている。それがわかっていたから、私は彼に責めるような口調は使わなかった。
けれど、私には私のやり方があった。
私は加藤さん——父の旧友に電話をした。
「お父さん、あの人の言葉なら耳を傾けるかもしれません。昔から、尊敬してるから」
加藤さんは快く引き受けてくれた。そして数日後、兄からメッセージが届いた。
「父さんが、マンションのこと聞いてきた」
私は静かにスマートフォンを置いた。
やはり、他人の言葉の方が、親を動かすことがある。それは少しだけ寂しく、けれど確かに希望でもあった。
八月、父は家を手放した。
兄と一緒に不動産会社に通い、査定を受け、買い手と条件をすり合わせた。最終的な契約の場には、私も同席した。
父は少し照れくさそうに言った。
「こんなふうになるとは思わなかったな。もっと、最後まで住むつもりだったよ」
私は答えた。
「その決断をしてくれたお父さんが、すごいと思う」
本心だった。
秋、父は新しいマンションに越した。
最上階の角部屋。南向きのリビングには陽が入り、緑もよく見えた。
「いいとこだな」と父は言い、釣り具を並べた。
私はふと尋ねた。
「寂しくない?」
父はしばらく考えてから、こう言った。
「寂しいのは、家じゃなくて、思い出だ。でもな、それは胸の中にある。どこに住んでも、消えはしないよ」
私は静かにうなずいた。
あの日、母が息を引き取った寝室。父と私が最後に話した居間。祖父が植えた柿の木。それらは、もう手放した。でも、父の言うように、「思い出」は残った。
そして、もう一つ、残せたものがある。
それは、「兄妹の関係」だった。
法と感情の間で揺れる日々だった。けれど、父がまだ父であるうちに、私たちは家族として、大事な決断を下せたと思う。
それはきっと、母が望んでいた形だったのかもしれない。
岐阜県を中心にお隣の名古屋でも不動産売却・購入なら共栄住宅にお任せください!
どんな物件でもご相談ください!!